「人生の受け身」をバスター・キートンに学ぶ【生涯も解説】

映画

毎度お騒がせしています。ジェリーわたなべです。

この記事では、僕が大好きなサイレント映画俳優であるバスター・キートンについて執筆します。

概要を述べてから、彼の生涯を時系列で紹介するという順番です。

バスター・キートンという人物

The Great Stone Face

バスター・キートン(本名:Joseph Frank Keaton、1895年10月4日~1966年2月1日)は、サイレント映画およびテレビ番組で活躍した、アメリカ人コメディアン。

チャールズ・チャップリン(Charles Chaplin)やハロルド・ロイド(Harold Lloyd)と共に「三大喜劇王」と称されることが多い人物でもあります。

バスター・キートンのサイレント映画期の特徴は、ふんだんに盛り込まれたスタントだと思います。もともとヴォードヴィル芸人(今の寄席芸人)の家庭に生まれ、天性の受け身の才能もあったバスターのアクションは、現代でも観客を圧倒する迫力があります。

「坂道を岩に追いかけられながら駆け下りる」
「ビルに飛び移るのに失敗して落下する」
「三人で肩車して、途中から二人に減る」


等々の、現在だったら即CGで撮影されるスタントでも当時は本当に演じていたのです。これらの我が眼を疑うアクションシーンが、バスター・キートン映画の魅力の一つだと思います。

バスターのもう一つの特徴として「決して笑わない」という点が挙げられます(本国では「The Great Stone Face」とも呼ばれています)。もともと笑わないキャラクターではなかったのですが、すごいスタントをしても平然としている姿が観客に受け、キャラクターとして定着したようです。

晩年のご尊顔

生涯で149本の映画に出演し(出典:IMDb)、1960年にはアカデミー名誉賞(Academy Honorary Award)を受賞しました。同年、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにも名を刻んでいます。

しかも「映画」での功績と「テレビ」での功績を讃えられ、二箇所にバスターの星があるそうです。生涯に1度は行ってみたい!!

バスター・キートンの生涯

バスター・キートンは19世紀末から70年間の人生を歩みました。その人生は生まれた時から死の床まで、常に人を笑わせることに捧げられました。

バスター・キートン誕生

バスター・キートンは1895年10月4日に、アメリカのカンザス州で生まれました。本名をJoseph Frank Keatonと言います。Joseph(愛称はJoe)は、バスターの父と祖父と同じ名前です。

バスター(Buster)の名前をつけたのは、縄抜けを得意としていた天才奇術師のハリー・フーディーニ(Harry Houdini)でした。当時バスターの父親と同様各地を巡業していたフーディーニは、キートン家とも仲が良かったのです。

Harry Houdini

バスターが3歳のある日、誤って階段から転げ落ちるという事故とがありました。近くにいたフーディーニが駆け寄り、バスターが怪我をしていないことを確認すると「My, what a Buster!(なんて丈夫な子なんだろう!)」(Keaton, 1960)と叫んだとか。

この呼び方をえらく気に入ったバスターの父親が、それ以降もバスターと呼び続けたそう。実際バスターはどんなに危険な芸をしても、泣かなかったそうです。そしてバスター本人も「泣くと痛々しくなって、お客さんが笑えなくなる」と考えていたようです。

バスター・キートンの家族

バスターの両親の名前は、父がジョー・キートン(Joe Keaton)で、母がマイラ・キートン(Myra Keaton)。両親ともにヴォードヴィル芸人(vaudeville。現代の寄席芸人)として活躍していました。

バスターには、2人の弟と妹ができます。ハリー・キートン(Harry Keaton)とルイーズ・キートン(Louise Keaton)です。この2人も当初はバスターと一緒に舞台に立っていたのですが、子供が仕事をすることを規制する法律が制定され、舞台を引退します。

最後に、バスターの結婚生活について。バスターは生涯に3回の結婚を経験しています。最初は女優のナタリー・タルマッジ(Natalie Talmadge)、次に看護師のメイ・エリザベス・スクリヴンス(Mae Elizabeth Scrivens)、そして20歳以上年の離れたダンサーのエレノア・ルース・ノリス(Eleanor Ruth Norris)です。最初の妻との間には、2人の子供ができました。

バスターとエレノア

ヴォードヴィル芸人時代

生来の受け身の天才であったバスターは、4歳から両親とともに「Three Keatons( キートン三人組)」として舞台に上がり始めます。すぐに看板に「Buster Keaton」の名前が大々的に書かれました。この待遇は、当時としても破格だったそうです。

Three Keatonsが舞台上でどのような芸をしていたのかというと、現在ではとても考えられないものでした。

有名なのが、バスターが父親に投げ飛ばされる芸。オーケストラピットや背景はもちろん、時には観客に向かって子供のキートンが投げ飛ばされたそうです。いつも子供を投げていた父親の右腕は、反対の腕よりも数倍太くなっていたとか。

他にも、ひげそりをしている父親の横で、ボールを先につけた紐をバスターがグルグル振り回すというハラハラする芸もあったそうです。

こういった芸は100年以上前とはいえ、さすがに人権派の人々を激怒させました。子供の人権を守る団体が、何度もバスターの父親に抗議に来たそうです。

ある日、人権団体が抗議に来ると父親のジョーは「こいつはもう大人なんだ!大きくならないタイプの人間なんだ!!」と言い放ったという逸話もあります。

さて、巡業に忙しいバスターは、どうやって学校に行っていたのでしょう。実は学校には、1日しか行っていません。当時はそういったことがあり得たのでした。

周りの芸人仲間に「そろそろバスターを学校に行かせたほうがいいぜ」と言われたジョーは、彼を最寄りの学校に行かせます。学校に行くのが楽しみだったバスターは、張り切ってクラスメートを四六時中大爆笑させたのでした。その結果、校長先生から「お引取りください」と言われ、バスターの学生生活はソッと幕を閉じたのでした。

バスターの活躍もあり、Three Keatonsは人気を博し続けます。そんなある日、新聞王のウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst:『市民ケーン』のモデルとなった人物。現代でいうルパード・マードック)からジョーに「Three Keatonsの映画を撮らないか」という誘いがありました。

新聞王William Randolph Hearst
メディア王Rupert Murdoch

ジョーは多忙と映画への不信を理由にして、この提案を断ってしまいました。もしも映画化が実現していたら、Three Keatonsの舞台を収めた非常に貴重な作品になっていただけに残念…

映画人時代

大人になったバスターは、西海岸の舞台を拠点にしていました。しかし父親のジョーはいつも酒浸り。怒ったバスターは父親を置いて、母親と一緒に街を出てしまいました。

ニューヨークに着いたバスターは当初、今まで通り舞台に立つつもりでした。しかし当時の大スターであるロスコー・アーバックル(Roscoe Arbuckle)との偶然の出会いが、彼の人生を大きく変えることになったのです。

バスター(左)と、ロスコー(中央)

ロスコーに「映画に出てみないかい」と誘われたバスターは、舞台の仕事を丁重に断り、映画界の門を叩いたのでした。

バスターの短編映画初出演作『The Butcher Boy 』(1917)は大成功。投げられた小麦粉袋を顔面で受けるというスタントに挑戦し、映画初挑戦なのに一発OKを出して周囲を大いに驚かせたのでした。

『The Butcher Boy 』(1917)
一番右端がバスター

その後も映画の仕事でメキメキ頭角を現し、自身のプロダクションである「Buster Keaton Productions」を持つまでになりました。

「Buster Keaton Productions」では1920年から1928年まで、数多くの短編映画及び長編映画を生み出しました。当然彼の知名度も給料もうなぎのぼり状態。

転機が訪れたのは1928年。この年にバスターはMGMと契約を結びます。この契約こそバスターが「the worst mistake of my career(我がキャリアで最悪の間違い)」(Keaton, 1960)と後悔する出来事。

ここから彼の人生が急降下を始めます。

自伝によると、MGMとの契約の前に、チャールズ・チャップリンやハロルド・ロイドに相談していたそうです。2人には止められたそうですが、バスターは義理の兄であるジョセフ・シェンク(Joseph M. Schenck、ジョゼフ・スケンクとも)を信じて契約する決心をしたのでした。

大企業MGMでの撮影は、バスター個人の創造性を大きく制限しました。撮りたい映画を、信頼できるスタッフと一緒に撮れなくなってしまったバスターをさらに不幸が襲います。

最初の妻ナタリーとの離婚です。さらに彼女との間にできた2人の息子の親権を失い、名字も彼女のものに変えられてしまいました。

度重なる心労に、バスターはまもなくお酒に逃げ場を見出すようになりました。

酒に溺れてMGMをクビになったバスターは人生のどん底を味わいます。MGMと契約してからわずか5年後のことでした。

しかし彼の天性のコメディの才能は失われず、ヨーロッパに興行をしに赴いたり、テレビ番組に出演したりギャグライターとして仕事を続けました。

晩年

1940年代後半にジェームズ・アジー(James Agee、ジェームズ・エイジーとも)がライフマガジンに『Comedy’s Greatest Era』という記事を掲載。バスターを含む無声映画時代の喜劇が再評価され始めます。( 『Comedy’s Greatest Era』 はこちらから読めます)

1957年には、偉大な業績を残した人物をたたえる『This is your life』という番組に出演したり、SFドラマ『Twilight Zone』の中の『Once Upon a Time』というエピソードに出演した。

さらに映画界では、Alan Schneider監督の『film』やGerald Potterton監督『The Railrodder』(共に1965年)等に出演。

The Railrodder(1965)

そして、バスター・キートンは1966年2月1日に肺癌で亡くなりました。享年70歳。『ローマで起った奇妙な出来事』(原題:A Funny Thing Happened on the Way to the Forum、1966)が遺作となりました。

Jerry’s Final Thoughts

僕がバスター・キートンの人生から学んだこと。それは「受け身が大切」ということです。

「受け身」といっても、危険なスタントをしても怪我を最小限に抑えるという直接的な意味だけではありません。

自分の思い通りの作品が作れず、離婚も経験し、アルコール依存症になるという人生のどん底を経験しても、決して腐らないという、比喩的な意味の受け身も含みます。

生きていく中で、上手く行かないことが起きるのは当たり前。前を向いて歩き続ければ、バスターが最愛の妻エレノアと出会ったり自身の映画を再評価されたように、きっとプラスなことが起きると信じたいと思います。

もっと知りたい人へ

バスター・キートンに関する書籍やドキュメンタリーは、たくさん世に出されています。ここではその中でも、僕が既に手にした次の2作品を紹介します。

1.バスター・キートン(1997)『バスター・キートン自伝ーわが素晴らしきドタバタ喜劇の世界ー』(藤原敏史訳)、筑摩書房

原著は1960年に出版されたバスター・キートンの自伝。子供時代のエピソードや、全盛期の友人達のエピソードが興味深いです。巻末のバスター出演作一覧も有用です。巻末の「100歳まで生きたい」というバスターの言葉が、胸をしめつけます。

2.『The Great Buster: A Celebration』(2019)

アメリカで公開されたドキュメンタリー映画。前半はジョニー・ノックスビルやクエンティン・タランティーノら、現代の映画人たちのインタビューがメインです。後半はバスターが監督した長編映画の解説が中心となっています。残念ながら未邦訳です。しかし、Blu-rayなら日本でお使いのプレーヤーで視聴可能になっています。

出典

  • IMDb( Internet Movie Database)、(全般、画像)
  • Wikipedia
  • Keaton, Buster (1960) 『My Wonderful World Of Slapstick』Kindle edition, Golden Springs Publishing.

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コメント

  1. […] (バスター・キートン自身については、先日「人生の受け身」をバスター・キートンに学ぶ【生涯も解説】という記事を書きました。ご興味ありましたら、こちらもチェックしていただけると幸いです。) […]

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